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カウンセラー(山崎孝)紹介

山崎孝(やまざきたかし)

大阪生まれの大阪育ち。4年ほど明石に住んだことがあります。それ以外は大阪の豊中市に暮らしています。北摂と呼ばれる大阪の北部に位置します。

私、妻、長男、長女、次女の5人家族。子どもは3人とも吹奏楽部に所属。彼らの演奏会鑑賞が夫婦の楽しみになってます。

1964年生まれ。今年(2017年)53才になります。心理学の勉強を始めたのは30代半ば頃からです。カウンセラーになるつもりはまったくなく、自分のために勉強していました。流れに任せていると、カウンセラーになってました。

臨床心理士の資格は取っておきたいと思いながら、大学院のために休職するわけにもいかず、決心がつかないままここまで来ました…が、年齢的に時間が多く残されているわけではありません。受験することにします。さて、どうなることやら。

カウンセラーとして

パソコンのソフトはOS(オペレーティングシステム:Windows や Max OS)がなければ動きません。また、最新のソフトは古いOSでは動きません。最新版にバージョンアップする必要があります。

カウンセリングの知識・技術はソフトにあたります。OSに該当するのはカウンセラー自身です。カウンセリングが機能するかどうかは、OSであるカウンセラー自身にかかっています。

プロして常にOSのバージョンアップに取り組んでいます。主に以下の場で研鑽に努めています。

  • 家族療法学会認定スーパーバイザーによるスーパービジョン
  • 神戸ブリーフセラピー研究会(事例検討・ワークショップ)
  • 神戸システムズアプローチ研究会(事例検討・ワークショップ)
  • カウンセリングオフィスSolaの解決志向アプローチ研修、スーパービジョン

資格・学会

  • 家族相談士(認定番号2021)
  • 下園壮太(元陸上自衛隊衛生学校心理教官)感情ケアプログラム指導者
  • JBM心理科学総合学院認定心理カウンセラー上級資格
  • 日本フォーカシング協会会員
  • 日本ゲシュタルト療法学会会員
  • 対人援助学会会員

心理療法

家族療法・認知行動療法・来談者中心療法・他。

最初に学んだのは来談者中心療法。傾聴だけでは足りないと感じて認知行動療法へ。感情が置いてきぼりになることに悩んでいたときにゲシュタルト療法に出会う。ゲシュタルト療法をきっかけにフォーカシングに出会って本当の傾聴を知らなかったことに気づく。

ぐるぐる回った末に家族療法に出会う。「人が問題ではなく、問題を作り出すシステムがある」とするシステムズアプローチ、問題解決ではなく解決を構築する解決志向アプローチに惹かれて力を入れている。

プロローグ

将来を描けずもがいていたある日、啓発セミナーに引き込まれるように参加。それをきっかけに様々な機関で心理学を学ぶ。その後、カウンセラーのトレーニングを受ける機会を得る。トレーニング終了後に思い切ってカウンセリング業を始めると、予想以上のニーズ。カウンセラーとして生きる決心をする。

以下、長~い自己紹介。読み返すと顔から火が出そうなこともありますが、私をより知っていただくことが安心感につながると考えて、思い切ってカミングアウトしてみました。

幼少の頃

気が弱くてケンカも弱かったらしい。わが子が泣かさることが悔しくてたまらなかったと、父によく聞かされた。

幼少の頃

何度も聞かされたエピソード。

ある日、父がおもちゃの刀を買ってきて、これで仕返ししてこいとけしかけた。持って出かけたところまではよかった。ところが返り討ちに遭い、刀を取られて帰ってきた。ついに父は、わが息子がケンカに強い男になるのをあきらめた。

親になって、「やられたら、やり返せ!」と幼い頃の息子によく怒鳴ってた。自分がされたことを息子にしていた。

弱い自分が嫌いだった。中学生の頃から、弱さを隠して強いふりをしていた。いつの間にか、それが本当の自分だと思い込んでいた。でも、心の片隅では常に、弱い自分を自覚していた。

息子を怒鳴っていたのは、息子を通して自分の嫌いな面に直面したから。自分のストレスを息子に向けていただけ。いわゆる投影。今ならはっきりわかるが、当時はわからなかった。

痛恨の極み。申し訳ない気持ちでいっぱい。

小学生の頃

塾へ行かず、家でも勉強せず。それでも成績は常にクラスで3番以内。それも4年生まで。5年生から塾でバリバリ勉強してる同級生と仲よくなり、授業中は常に彼らと遊ぶ。それから成績は急下降。

当時、スポーツと言えば野球。少年野球チームに入るがレギュラーになれず。運動能力は優れていたと思うけど、競争心がなかった。父はそれも悔しかったみたい。野球はそれなりにおもしろかった。

小学生

東京ボンバーズの影響でローラースケートが大流行。これが得意で、たぶん、町内で最もうまいレベル。楽しい小学生時代、お山の大将。

最近思い出したこと。多分、小学生の頃。父が何かで(具体的事例は覚えてない)母に責められたとき、決まって「孝が・・・」と私に責任転嫁することがあった。もちろん、まったくの濡れ衣。幸い母は見抜いていた(笑)。

父が怖かったので何も言えなかったが、心の中では怒りを積み重ねていた。つまらないことでキレやすくなったのは、このときの怒りを他の対象に置き換えていることに気づいた。気づいたとき、解放された。

今は父に対する恨みや怒りはまったくないので念のため。むしろ今でも世話になりっぱなしで感謝。

父によく登山や釣りに連れて行ってもらった。釣りは中学生でも熱中。大人しかいない釣りクラブに入ったり、同級生とテントを持って山に入り、数日間渓流釣りをしたことも。

今振り返ると、野球も釣りも、そんなに好きではなかったと思う。父が喜ぶとか、父に認められるとか、そのような気持ちが少なからずあったと思われる。

一方、母との記憶がほとんど思い出せない。人格形成に影響を与えているのは間違いない。

中学生の頃

友達に誘われ何となくバレー部に入部。2年生の時、ある技術書を読んだのをきっかけに急激に伸びる。先輩が引退してレギュラーに。それをきっかけに競争心が芽生える。

3年生の時、豊中市大会で優勝。一応、成功体験。しかし、大阪府レベルでは弱小校。全国を狙う学校にはまったく歯が立たなかった。

ケンカの強さが男の証みたいな風潮があった。加えて幼少のころの体験。必死で強がっていた。上級生に偉そうな態度をとったことも。でも、内心はとてもビクビクしていた。

中学生

美術の成績が最悪。授業態度が悪いわけでもなく、ふざけてやっていたわけでもなかった。それでも、成績はほとんど2、良くて3。後年、Web制作を仕事にしていた時期があり、今もデザインに強い関心あり。人ってわからない。

とっても堅物で女嫌いとまで言われてた。実は嫌いなわけではなく、極度に内気だっただけ。本当は女の子と仲良くしたかったんだけど。。。傷つくことや他人の目をひどく怖れていた。

高校生の頃

ジョン・マッケンローのプレイをはじめて見たのは、確か全米オープン決勝にはじめて進出したとき。荒々しさに強い衝撃を受けた。全盛期の彼は洗練されてまさに天才。大ファンに。

高校ではテニスをやりたかった。強さへの渇望も衰えず、空手をやりたい気持ちもあった。

他校へ進学したバレー部の同級生数人が、入学前からバレー部の練習に参加していた。そんな彼らに何をしてるんだと煽られた。感化されて、入学式当日にバレー部へ。中学とのレベルの違いに驚く。もっとも、その年は大阪府でベスト8まで勝ち進んだ強いチーム。当たり前と言えば当たり前。

顧問がすべてを仕切る中学と違って、生徒の自主性に任せる部活。顧問の先生はほとんど練習に顔を出さない。そのかわり、OBがちょくちょく顔を出す。OBが苦手だった。

2年生の終わりにもらった通知表に、「クールな男がどんなときに燃えるのか、1年間じっくり見せてもらいました」と書かれてあった。日常と部活では別人だったらしい。

3年生になって主将に。ストイックに取り組み輝いていたと思う。しかし、ただがむしゃらにやってただけ。身体をいじめなければやった気になれなかった。試合前にへとへとで疲れ切っていたことも。

自分本位でリーダーシップに欠けていた。特に後輩への指導力が欠如していた。今でも思い出すと、申しわけない気持ちでいっぱいになる。

ある試合で、感情を爆発させてしまいチームがバラバラに。それがきっかけとなり感情を抑えるクセが。クールな男と言われてたけど、無理矢理抑えていただけ。成人してからキレやすく感情のコントロールが効かない時期があったのは、このときの反動もありそう。

入学時は大阪府1部リーグの強いチーム。私の代になって「降格の危機!」と不安がられていた。しょっちゅうOBが顔を出しにきた。ところが、春季リーグ戦で優勝。成功体験。

女の子に対する内気は少々緩和されたものの根本的には変わらず。卒業間近、ある女の子に告白するも玉砕。みっともない姿をさらして引きずった。

受験では、ある大学に合格するものの、ブランド志向の自尊心が満たされず浪人。しかし、明確な目標もなく遊びほうける。さんざんな結果。もう一年浪人しようと思ったけど、母は認めなかった。母の判断は正しかったと思う。

振り返ると、このときの自信喪失を20年くらい引きずっていた。

大学生の頃

クラブにもサークルにも入らず、マージャンとアルバイトに明け暮れる生活。

まったくの素人マージャンだったが、初心者グループに属さず上級者グループで授業料を払い続ける。意地になって4年間続けると、それなりのレベルになったみたい。

4年生のとき、入学時の初級者グループに誘われ卓を囲む。4年経っても彼らのレベルは向上してなかった。所属するグループで差が出るものだと思った。やりたいことがあるなら、今の自分よりレベルの高い場所に身を置くのが良いと思う。自然とそのレベルまで引き上げてもらえる。

GW、夏休み、冬休みはマージャン仲間と旅行。観光地やスキーに行っても主役はマージャン。正月は旅行先でマージャンを打ちながら迎えていた。

スキー場でのある朝、徹夜マージャンして朝方ベッドに入ったら、ペンションのオーナーが叩き起こしに来た。「羊蹄山がこんなにきれいなのは月に2,3日しかない!見に行け!」と追い出された。お客をこんな風に叱れるオーナーは素敵だと思う。

旅行先にて

4年間続けたアルバイトはホテルのボーイ。性に合う仕事だったようで、忙しいときほど生き生きしてると言われてた。仕事には自信があって、社員以上だとうぬぼれていた。単なるうぬぼれだったけど。

勉強しないどころか大学の門をくぐることさえ少なかった。単位が足りず追試を受けて何とか卒業。卒業が決まったのは卒業式の一日前。

浪人時代、大学時代は楽しかったけれど、どちらかというと自分にとって負の時代。今でも多少の後悔と学歴コンプレックスがある。もっとも今、勉強に身が入るのはそのおかげ。悪いことだけではない。

会社員の頃

幸運なことに某大手スポーツ用品メーカーに就職。できる社員ではなかったが、できない社員でもなかったと思う。ただ、仕事で目立った成果はなし。それでも目をかけてくれる上司がいた。今となっては感謝の一言。

この頃、キャンプに凝る。4WDで山の中を徘徊し、適当な場所を見つけてのキャンプが多かった。季節などお構いなしに一年中。地元の人はさぞかし迷惑だったでしょう。今はそんなことしません。

ある真冬のキャンプで数年ぶりの大雪に。朝、目が覚めたら、雪でテントが押しつぶされ、天井が目の前20cmに。一つでも歯車が狂っていたら死んでたかもしれない。

職場で奥さんと知り合い結婚。段取り・時間管理に優れた女性。私より優秀なのは確実。妻が退職するとき、慰留したい妻の上司に呼び出され恨み節をいただいた。「お前にはもったいない」。まったく同感。

新婚旅行にて

結婚2年後、長男誕生。怒って育ててしまった。しつけではなく、自分の満たされない思いを彼にぶつけていただけ。後悔の念は今も消えない。失ったものを取り戻そうと努力し続けているが、こればかりは自信を持てない。

彼は今、大学生。すでに一人で生きていく力を身につけている。たくましい。親がダメでも子は勝手に育ってくれる。いや、妻の力も忘れてはいけない。

1回目の転職

会社の業績が厳しくなり早期退職の募集が始まる。目をかけてくれていた上司、懇意にしてた上司が早期退職。気持ちの拠り所がなくなった。仕事がストレスフルなこともあり転職を決意。

そんな理由での転職はうまくいかない。

転職先は、カリスマ社長が創業したベンチャー。前職とはまったく異なる企業文化に驚く。前職の常識がまったく通じず、常識は一つではないと実感。それ以来、常識という言葉を使わなくなった。

月給○○円という条件で採用されたが、賞与が無いことを入社後に知った。あるものと勝手に思い込み、確認しなかった自分が大マヌケ。常識は通用しない。

事実上の解雇が頻繁にある会社で、社員の回転が非常に早かった。長期間勤める職場と感じられず、2年後に退社。

2回目の転職

知らない人はいないであろう昇り龍のような勢いの企業と、中堅企業の2社から内定をもらう。比較的容易に転職できる幸せな時代だった。実力と思いたいが、新卒入社した会社のネームバリューと時代に恵まれたおかげ。

前者に行くと中国駐在が確実。迷った末、後者に決める。

出社初日に先輩から、前任者は上司の厳しいプレッシャーを浴び続けて、うつ病になり退職したと聞かされる。自分は大丈夫だと笑っていたが、2年後同じことになる。

人格を否定する言葉を何度も浴びせられた。上司に問題ありとは思うけど、うまくやっている人も当然いた。自己開示できない、人間関係を作れないなど、自分自身に原因があった。

まともに睡眠も取れず、思考能力や身体能力の異常を感じていたある日、お堅い雑誌に掲載されていた「うつ度テスト」をやってみると満点。精神科へ行くとうつ病の診断。

しばらく通院しながら出社していたが、次第に休む日が多くなり、まったく行けなくなった。あの状態が続けばつぶれていたと思う。一方、「逃げただけではないか?」との気持ちは今も残っている。

半年間の休職の後、復帰できずに退社。社長はわざわざ時間を作って下さり、ねぎらいの言葉とお見舞い金をいただいた。今でも大変感謝している。

引きこもりの頃

その後、約2年間引きこもり。特に最初の1年は、文字通り何もせずぼーっとしていた。

ふとパチンコへ行き、それをきっかけに毎日行くように。玉を目で追ってる時だけが、何も考えず心が落ち着く状態だった。そして借金。妻に見離されなかったのが、人生で最大の幸福と言える。

ある日、新聞でアフィリエイトの存在を知る。就職せずに生きていく可能性を感じて取り組む。初めての収入はうれしかった。小さな成功をきっかけに意欲がわき、家を出てセミナーに参加するように。

収入は順調に増えていった。ホームページの技術が向上するにつれて、ホームページ制作の依頼をしてくれる人が出てきた。この道でやっていけるという希望がさらに大きくなった。

次女5歳のとき

その頃に出会った人たちのほとんどが、経営者・起業家・自営業者。彼らを通じて、それまで知らなかった生き方や価値観を知った。

心理学を学び始める

ある啓発系のセミナーに吸い込まれるように参加。お金はまったくなかったけど、どうしても参加したくて問い合わせたら、分割払いで参加させてくれた。

修了後、運営スタッフをやらせてもらった。とても勉強になった。しかし、心地よい場所にとどまってしまうと先に進めなくなる。離れてから気づいた。

そこで出会った友人にすすめられた心理学講座がこの世界に入るきっかけに。学べば学ぶほど、なぜ自分がこうなったのかを知ることができた。自分自身をより知ることができた。学ぶことの楽しさを知った。人との出会いも得がたいものだった。

当初は学びと出会いだけが目的で、心理カウンセラーは頭になかった。

心理カウンセラーに

友人にすすめられた心理カウンセラー養成講座を受講。師匠に出会う。

600時間のトレーニングを終えて認定試験にチャレンジ。1度目は不合格。2度目に合格。仕事としてやっていけるものなのか確信がなかったので副業的に始めてみる。半年を過ぎた頃から手応えを感じるようになった。これで生きていくことを決めた。

事業を営む上での様々なストレスがあるが、心理カウンセリングや心理学の勉強にはほとんどストレスを感じない。天職と思っている。

振り返って

人との出会いが私をここまで連れてきてくれました。師匠との出会いも友人がもたらしてくれました。師匠には今も変わらずスーパーバイズなどで指導をいただいてます。何より妻の支えがなければ今の私はありえません。

私との出会いが人生の転機なったと思っていただけるような心理カウンセラーになるべく、日々研鑽に努めています。

「人って、変われるんですね。ありがとうございました」と言って終えられた方、「一生通います」と言って下さる方もいらっしゃいます(終了時の気持ちの高ぶりがその言葉を口にさせるだけで、一生通われる方はいません。念のため)。

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